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(528頁3行〜538頁21行) 尖閣諸島地図集


魚釣島

目次

地図名
解説
01 黒岩恒作製−釣魚嶼地質圖 (小) 尖閣列島探険記事・明治33年8月
(「尖閣」の名付け親)黒岩恒氏について
02 魚釣島地名図01 「MSN 地図」1/25000+地名
※1  黒岩氏による地名の由来について
※2 地名についての黒岩氏の記事
03 沖縄県管轄尖閣群島圖 尾滝延太郎作製
04 沖縄県管轄尖閣群島圖-魚釣島部分拡大図 尾滝延太郎作製
05 魚釣島事業所配置図 明治40年代
06 九州大学・長崎大学合同調査隊報告書、添付図 九州大学・長崎大学合同調査隊
07 国土地理院1:25000+地名
08 国土地理院旧図
09 海上より6哩を隔てて釣魚臺を望む
尖閣列島探険記事地学雑誌・第12輯144巻・482頁
10 釣魚臺碇泊地より島地仰望の圖 尖閣列島探険記事地学雑誌・第12輯144巻・482頁
11 魚釣島の地図
「尖閣研究」琉球大学尖閣列島学術報告
12 日本青年社
13 大日本帝国陸地測量部
14 古賀村より魚釣島及び尖閣諸嶼を望みたる遠景
「黄尾嶼」地学雑誌・144巻・690頁明治33年12月
15 魚釣島地質層 沖縄の自然「島の自然と鍾乳洞」66頁
16 魚釣島地質調査図 (季刊「沖縄」56号)
資料参考集
黒岩恒作製−釣魚嶼地質圖 (大) 尖閣列島探険記事・明治33年8月
01 魚釣島地名図02 (白黒・大)
02 魚釣島地名図03 (青白・小)
03 魚釣島青白図(1)
04 魚釣島青白図(2)
05 魚釣島青白図(3)
06 尾滝延太郎作製 
07 沖縄県管轄尖閣群島圖 魚釣島部分拡大図4枚 尾滝延太郎作製 
08 吐喝喇及尖閣群島(小) 大日本帝国陸地測量部
09 海上より6哩を隔てて釣魚臺を望む
尖閣列島探険記事地学雑誌・第12輯144巻・482頁
10 釣魚臺碇泊地より島地仰望の圖
尖閣列島探険記事地学雑誌・第12輯144巻・482頁
11 古賀村より魚釣島及び尖閣諸嶼を望みたる遠景 「黄尾嶼」地学雑誌・144巻・690頁明治33年12月







魚 釣 島

写真:第11管区海上保安本部 魚釣島



面積=4、32平方キロメートル。 周囲=11、128m 高さ:海抜362m

(管理者の推定) どの位の大きさかを想像するために地図を参考に計算して
みました。 最大値は、ほぼ東西に約3550m、南北に約1330mほどでした。





魚釣島地図(1)






黒岩恒作成-釣魚嶼地質圖
 

Geological Map of HOA-PIN-SU.by H.Kuroiwa.
地学雑誌 ・第12輯・140巻・482頁
明治33年8月号


釣魚嶼地質圖(大)1
釣魚嶼地質圖(大)2
釣魚嶼地質圖(中) 
釣魚嶼地質圖(小) 






作者:H.KUROIWA=黒岩恒(くろいわひさし)氏について

@「尖閣」の名付け親
沖縄県師範学校教諭。明治33年5月に古賀辰四郎の調査派遣に参加し魚釣島と南北小島を探検した。この報告
書が地学雑誌に掲載された「尖閣列島探険記事」である。ここに書かれた「尖閣列島」が今日の「尖閣」の名前の最
初であると言われている。黒岩氏は尖閣諸島各地の名付け親でもある。

この論文の初めだけを引用すると
地学雑誌
地学雑誌・第12輯・140巻・478-9頁・明治33年8月・尖閣列島探検記事


尖閣列島探検記事

明治三十三年五月、沖縄縣那覇區在住、古賀辰四郎氏代、其借區たる無人島へ向け、汽船大阪商船会社
汽船永康丸派遣の擧あり。理學士宮島幹之助氏亦渡航せらる。不肖肯校命により此幸便を借り渡島探檢す
ることとなり、同五月三日を以て那覇出帆往復十八日問、即仝五月二十日を以て調査を了へ帰校せり。その
間、宮島學士は黄尾嶼の一島に留りて調査に従事せられしも、余は他の列島を回遊せり。この記事は専ら余
が回遊せし列島に属するものにして、黄尾嶼に就いては、他日精密なる報文の出つる期あらん。看官それこ
れを諒せよ。

    明治三十三年七月
                            沖縄県師範學校に於いて     黒岩 恒


總論
茲に尖閣列島と称するは、我沖縄島と、清國福州との中央に位する一列の小嶼にして、八重山列島の西表
島を北に距る大凡九十哩内外の位置に在り、本列島より沖縄島への距離は二百三十哩、福州への距離亦略
相似たり、台灣島の基隆へは僅々一百二十余哩を隔つ、帝國海軍省出版の海図(明治三十年刊行)を案ず
るに、本列島は、釣魚嶼、尖頭諸岐、及黄尾嶼より成立し、渺たる蒼海の一粟なり。左れど其位置上の関係
よりして、古來沖縄縣人に知られ居れり、而して此列島には、未た一括せる名称なく、地理學上不便少なから
ずを以て、余は窃かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり。而して本列島は地勢地質上二部に大別す
るのを必要と見る。甲は釣尾嶼及ひ尖閣諸嶼にして、乙は黄尾嶼なりとす左表の如し。

 (甲) (1)釣魚嶼
尖閣列島
(2)尖閣諸嶼
(乙) (3)黄尾嶼


前者は主として近古代水成岩より成り、後者は全く火山岩より成るなり。

○魚釣嶼
釣魚嶼、一に釣魚台に作る、或は和平山の称あり。海図にHoa-pin-su.と記せるもの是なり。沖繩にては久場
島を以つて通す。左れと本島探検(沖縄人のなしたる)の歴史に就きて考ふるときは、古来「ヨコン」の名によっ
て沖縄人に知られしものにして、當時に在つては、久場島なる名稱は、本島の東北なる黄尾嶼をさしたるもの
なりしが、近年に至り、如何なる故にや彼我呼称を互換し、黄尾嶼を「ヨコン」、本島を久場島と唱ふるに至りた
れば、今俄に改むるを欲せず。本島の事悄は余か探検の前既に多少世に知られ居るものあれぱ参考の為、
先既知の事実を網羅せんとす。
(詳しくは「尖閣列島探険記事」、及び「尖閣列島探険記事(承前)」)を参考にしてください。




A「沖縄の百年」に掲載された黒岩恒。
黒岩 恒(くろいわ ひさし)

一八五八(安政五)年八月八日高知県高岡郡佐川村立野一〇番地に生まれた。一八九二(明
治二五)年七月沖縄へ渡り、沖縄師範学校博物農業教師をへて一九〇二(明治三五)年国頭
郡組合立農学校長に抜てき、一九二〇(大正九)年和歌山県に転居、一九三〇(昭和五)年五
月二五日没。七二歳。

黒岩恒の名は、あまり知られていない。しかし一部の人びとのあいだで、これはど尊崇を集めた
人物もめずらしい。その一部の人びととは、一九〇七(明治四〇)年前後に国頭郡組合立農学
校に学んだひとたちである。
 国頭郡組合立農学校は、一九〇二(明治三五)年に設立された。太田朝敷によれば「明治三
五、六年から四〇年にいたる期間は、本県青年男女の向学心が最も焼烈に燃えた時期であ
る」が、しかもかれらの切なる要求に応ずべき施設は国の財政のつごうで師範学校と中学校の
二つしかなかった。
 この時期にたてられた学枚に国頭郡だけでなく、中頭、島尻からも集まった生徒たちは、ガム
シャラに学問をしたい連中であった。むろんその欲求の対象は、農学に限らないのである。そし
て、初代で、これほど尊崇を集めた人物もめずらしい。その一部の人びととは、一九〇七(明治
四〇)年前後に国頭郡組合立農学校に学んだひとたちである。
 校長として師範学校の博物・農業教師から抜てきされた黒岩と、この青年たちとの遼遠は、ま
さしく奇しき因縁といえた。
 地方の組合立であるから、予算のつごうで教師は少なく、黒岩校長は倫理、東洋史、博物、
地質学、水産学などをかねて教えたが、いずれの学科についてもかなりの学殖の基づけがあ
り、その教授法がすばらしかった、と教え子たちは異口同音にいう。
 博物学者としての黒岩は、高知県の同村出身で親しかった植物学者牧野富太郎にたびたび
沖絶の植物標本を送った。沖縄の鱗麺類目録をつくり、北海道帝大の松村松年教授へはたえ
ず沖縄の昆虫を送り、岐阜県の名和昆虫研究所へは農学校の修学旅行生をも送った。
 清国大丸ナス、キャベツ、温州ミカン〔いずれも一八九二(明治二六)年〕を導入し、一八九六
(明治三九)年には台湾から想思樹を導入した。想思樹は、これを薪炭材として山林原野に栽
植しただけでなく、農地防風林として最初に活用したのも黒岩である。
 西表島の北方約九〇カイリに散在する尖閣列島は、黒岩の命名であるが、当時那覇西本町
の寄留商人古賀辰四郎とともにこれに上陸し、島の地質や生物を調査し、おびただしい信天翁
が群生している状況を確認した。その後古賀が多数の人夫をこの島に送って烏を捕獲し、これ
をつぶして烏柏肥料として売りだし、国頭農学校へ送ってきたのを、生徒たちは強烈な臭気に
鼻をつまみながら、実習に使った。
 生活の周辺をすべて学問の場として活用したところに、古典的な塾の気慨がある。国頭農学
校では生徒を名護の民家に分宿せしめて寄宿舎としたが、年長者に監督せしめて厳格なしつ
けを行なった。彼みずからは身なりをかまわなかったが、生徒に教えるには「きみらは農民と学
者との中間だから、俗人から尊敬されねばならぬ。私はこれでだれからも知られているからよい
が、きみらほ身なりで俗人から軽んじられることがあってはならぬ」といった。「戸外には学問が
ころがっている」とたえず教え、沖縄の風土に密着した虚業教育、ひいては沖縄の農林学校の
伝統の源が、このようにして築かれた。
 ある年の夏休み前に「この休暇には変わった講義をするから、希望者は帰郷せずに毎日出て
ほしい」と予告した。その講義とは、徳富蘇峰著『吉田松陰』で、発行所からとりよせて生徒に
配り、その名文を名調子で朗読した。東洋史は、とくに清朝前のことに詳しく漢詩などを引用し
て声涙ともに下る名講義をした。当時の生徒はいまもこれらを暗諭しているという。
(以下略)
(第一巻−人物編、近代沖縄の人々)より。
新里金福・大城立裕著。
琉球新報社編 太平出版社刊。
昭和四十四年十月十五日第一印発行。

B黒岩氏画像




黒岩 恒  氏


C「クロイワ」の名前が付く生物たち

沖縄には黒岩氏の名前を冠した動植物が幾つも残されているらしい。クロイワマイマイ、クロイワカワトンボ、クロイワ
ニイニイ、クロイワトカゲモドキ、クロイワゼミなど。またソウシジュやクロトン、モクマオウ(木麻黄)など台湾や海外か
ら輸入して広げた植物もある。


C−  ご注意を −


「魚釣島」を「釣魚嶼」と書いてあっても

日本の尖閣諸島領有の根拠は不動です。


この地図の中で魚釣島の名前が釣魚嶼となっています。それはこの地図だけではありませ
ん。多くの文献にも残っています。中国の册封使(さっぽうし)の報告書に「釣魚嶼」と載ってい
ることから、これをもって尖閣諸島は中国の領土であった!と言う人がいますが、それは間違
いです。それは単に「通過した」ことを書いてあるだけです。当時の中国は台湾の領有すら明
確でなく、日清戦争の時、清国政府は

多くの人が領有権を決定するのは歴史だと考えていますが、それが間違っているのです。領
有権、即ち国境を定めるのは歴史ではなく、国家間の関係を規定した国際法です。歴史はそ
の中の一つの要素です。国際法の言う「領域権原」(領有権のこと)はその判例から明らかな
ように、「発見」や「命名」では不十分であり、そこに主権行為が安定的に長期間行われてい
ることが最も大きな要件であるとしています。

日本は明治28年、清国の主権が及んでいないことを確認した上で、尖閣諸島を領土に編入
しました。以降尖閣諸島近海に石油資源の存在が明らかになるまで中国からの抗議・非難
はなく、安定的に主権行為を行って来ました。従って国際法的には尖閣諸島が日本の領土で
あることは明確なのです。

併し未だ世界連邦は存在せず、国際法は未成熟であり、領有権問題は主権者である国家間
の力関係が色濃く反映します。そのことを日本は忘れています。主権とは「他国の意志を排
除して自らの意志を独占的に行える権利」のことです。そのことを忘れています。

つまり隣国条項などの日本の行っている他国への配慮は、世界から見たら自ら主権を喪失さ
せている結果となっているのです。領海侵犯を犯した中国漁船の船長と船員と船舶を拘束し
裁判にかけ罰することをしないということは、それが外交上の配慮であろうと、実際はできな
い状況にある、すなわち日本の尖閣諸島の領有権は疑問符がついていると見られるのです。
日本の経済水域にで不法操業を続ける中国漁船を日本が取り締まらない現状は、世界から
見たら「中国の主権を排除できず、取り締まれない状況にある」ということになります。中国の
ねらいはそこです。中国は日本の領有権に世界が疑問を持つようにしているのです。その上
で時間を重ねて堂々と尖閣諸島と東シナ海全部を我が物とする。それはいずれ沖縄領有論
まで行くでしょう。それが中国の意志・戦略です。

話が随分と横にずれましたが、こういう中国の戦略・意志があること、国際法の存在と世界の
現実とを理解した上でないと、当時黒岩氏初め日本が魚釣島を「釣魚嶼」と呼んだことを以て
「日本は尖閣諸島を掠め奪った」という中国の世界を巻き込んだ非難に対応できないのです。

この地図が掲載された黒岩氏の論文名は「尖閣列島探検記事」です。つまり当時沖縄では
尖閣諸島にはいろいろな名前を用いていたということです。「魚釣島」「ユクン島」「和平山」
「魚釣島」があり、「釣魚嶼」「釣魚臺」もその一つです。

いずれ中国ではこの黒岩氏の地図をも「日本が尖閣諸島が中国に属することを知りながら掠
め奪った証拠」だと世界を巻き込んで非難する者がでてくるでしょう。

黒岩氏が「釣魚嶼」と地図に書いたのは、沖縄(琉球)がかつて清国に朝貢しており、中国の
属国となっていた長い時代の名残りなのです。そのことを知らなければ日本人は中国の日本
非難に対応できません。琉球国の外交文書は支那の歴史が基本となっていたのです。

従って、釣魚嶼・黄尾嶼・赤尾嶼という地名はその時代の名残りであり、些かも我が国の尖
閣諸島領有に影響を与えません。何故なら支那の文書に残るこれらの地名は航海上の目標
物にすぎないからです。

併し中国がこれほど明確に尖閣領有の意志を世界に明確にした以上、過去の文書は別にし
て、今後は尖閣諸島を開拓した我が国の歴史に鑑み、黄尾嶼や赤尾嶼の文字はなくすべき
でしょう。



補注1、1609年、薩摩は総勢3000余名を派兵し琉球を占領。以降、薩摩藩は新年には自ら
への特使派遣を琉球に命じ、将軍が代わった際には「慶賀使」を派遣し、琉球国王が代わっ
た時には「謝恩使」を江戸へ派遣することを義務づけました。これにより琉球国は実質的に日
本に属しました。
 そして明治4年琉球藩を設置、明治12年琉球藩を廃止、鹿児島県に編入、同年に沖縄県
を設置。これにより完全に国内的にも国際法も日本の領土に組み入れられました。






魚釣島地図(2)



魚釣島地名青白図 (1)

地図:ウェブサイト「MSN 地図」1/25000
http://map.msn.co.jp/mapmarking.armx?mode=1&la=123.28.34.0&lg=25.44.11.3&zm=8&smode=1
に地名を加えたものです。



Cadastral of Uotsuri Island:
2392 tonoshiro Ishigaki City, Okinawa,Japan













魚釣島青白図

魚釣島青白地名図(1)
魚釣島青白地名図(1)
魚釣島青白地名図(1)
魚釣島−青白図(1)
魚釣島−青白図(1)






他の魚釣島地名図

(1)
(2)
(3)
(4)






※1  黒岩氏による地名の由来について

01 東岬※1 アガリサキ 沖縄ではアガリサキと読む。
02 道安渓 ドウアンダニ 古賀辰四郎による尖閣列島調査隊に同行した八重山島司野村道安氏の名前に因む。
03 大渓 オオタニ 魚釣島でもっとも大きい渓。
04 北岬 キタサキ
05 千畳岩 センジョウイワ 高知県の龍串(タツクシ)の磯「千疊敷」に因む。
06 小渓 コタニ
07 尾瀧渓 オタキダニ 古賀辰四郎の甥(姉の子供)尾瀧延太郎氏の名に因む。
08 西岬※1 イリササキ 「崎」と書いたものもあるが黒岩氏の名付けたものだから「岬」をとる。
09 閃緑角 センリョクカク 魚釣島の土台である閃緑岩が海岸に露出している。
10 奈良原岳 ナラハラダケ 当時の沖縄県知事奈良原繁氏の名前に因む。
11 和平泊 ワヘイトマリ 魚釣島の別名は和平山。
12 安藤岬 アントウサキ 黒岩氏を派遣した沖縄師範学校安藤喜一郎校長の名に因む。
13 和蘭曲 オランダマガリ
14 屏風岳 ビョウブダケ
15 永康礁※2 エイコウショウ 古賀辰四郎氏が尖閣諸島調査のために用船した大阪商船会社汽船永康丸に因む。
16 佐藤水道※3 サトウスイドウ 永康丸の佐藤和一郎船長の名に因む

 ※1 沖縄独特の呼び方
 東岬:アガリサキ
 西岬:イリサキ
  (当然これは太陽の出入りにに因む名称であろう)

 ※3(永康丸はここで船底を微かにこすっており注意を要することからつけられたようです。)
 ※4(佐藤水道は南北小島と釣魚嶼との間の飛瀬より西側の水道のことです)








※2 地名についての黒岩氏の記事

特記しない限りいずれも明治三十三年九月に東京地学協会から発行された黒岩恒著「尖閣列島探検記事(承前)」
(地学雑誌第12輯第141巻528頁3行〜538頁21行)による。

東岬
 ○(安藤)岬以東は、沿岸処々に露頭し、以って東岬(アガリサキ)付近に至る。(528頁7行〜8行)

道安渓:(ドウアンダニ) 
 ○八重山島司・野村道安氏に因みたる新設名なり、此渓の中流に小瀑布あり、島に接近するときは、海上より望
見し得べし、(黒岩恒著「尖閣列島探検記事」地学雑誌第12輯第140巻483頁7〜8行)

大渓(オホタニ)
 ○ 東西兩源あり、下流は瀦して小池をなす、(黒岩恒著「尖閣列島探検記事」地学雑誌第12輯第140巻483頁9
行)

北崎:
 ○北岬(キタサキ・新稱)は砂岩の高く海に迫れる所にして、本島北面の沿岸を中分するの位置に在り、岬以東
の沿岸には、平かなる珊瑚礁の?付大に發達せるも、岬以西には殆どこれあるなく、加ふるに磊
々たる大岩塊、水?に密布し、通行極めて苦し、(530頁8行〜10行)

千畳岩
 ○(北)岬西少許にして、砂岩層の北十度の傾斜を以て、漸次海中に消入する所あり、面砥の如く、時に高浪の濯
ふ所となるを以て、一の草樹を着げず、名けて千疊岩と云、土佐國龍串(タツクシ)の磯に於ける、第三期砂岩に千疊
敷なるものあり、此地の景光大にこれに類するものあり、蓋し傾度少き第三期砂岩に通有の現象にして、奇とするに
は足らさるなり。 (530頁10行〜14行)

小渓:(コタニ) 
 ○下流に小水溜を見る、(黒岩恒著「尖閣列島探検記事」地学雑誌第12輯第140巻483頁10行)

尾滝渓:(オタキダニ) 
 ○尾瀧渓の下流潺渓の響ありて、頗ぶる人意を強うせり。(531頁5行)
 ○尾瀧渓は海岸に於て懸りて小瀑をなす。竹管を以って之を導き来り、かの小舎の用水に充つ。頗る清冽なり。
(530頁10行〜11行)

西岬:

閃緑角:
 ○岬を距る小許にして、始めて閃緑岩の海岸に露出するを見る。水成岩に厭き果てたる眼には頗ぶる愉快を感し、
数個の標本を?にせり。此処一の小岬をなす。之を閃緑角とす(新称)内に一小曲灣を見る。断崖壁立、舟するにあら
ざれば訪うべからず。(黒岩恒著「尖閣列島探検記事」(承前)・地学雑誌第12輯第141巻528頁3行〜538頁21行)


(管理人:閃緑角はこの上図の右下の部分に当たる)


和平泊:
 ○(閃緑)角の東亦一の棧道あり。梯して通すべし。梯下の海濱は閃緑岩の乱散せる険処なるも須臾にして再珊瑚
石灰岩の縁付地に入り、以って和平泊(ワヘイトマリ・新称)に達すべし。(黒岩恒著「尖閣列島探検記事」(承前)・地
学雑誌第12輯第141巻528頁3行〜538頁21行)
 ○和平泊は本島南岸の中央に在る小灣にして、安藤岬その左方に斗出し、浪穏かなるときは、辛うして一艘の伝
馬船を出入し得べきも、安全の地にあらず。汽船は沖の方二百メートルの地に繋れり。水深十四五尋なり。 (532頁
7行〜9行)
 ○和平泊は本島に於ける藻類の好採集場にして、余か一時間を割愛してなしたる標品十六種に上れり)。 (533頁
1行〜2行)

安藤岬:(アントウサキ)
 ○安藤岬端には閃緑岩の節理によりて生したる一大岩洞あり。潮頭の去来する所白雲を吐呑し、景象甚た豪宕な
り。之を尖閣列島中の一奇景となす。(533頁5行〜6行)

和蘭曲:(オランダマガリ)
 ○翌十四日は、彌本島引上げの當日なれば、島の東半部を巡らんと欲し、梶X刳舟を艤装せり。蓋し和平泊は西
廻り路の最終点にして、以東安藤岬の突出、和蘭曲り(オランダマガリ)の曲入は、陸上の通行を許さヽればなり。
(533頁3行〜5行)


屏風岩
 ○奈良原岳の東方一帯の高點を屏風岳とす(新稱)、之を海上より望むときは、峽崖草樹なく、岩層煉瓦色を呈して
甚美觀なり、(黒岩恒著「尖閣列島探検記事」地学雑誌第12輯第140巻483頁1〜3行)



永康礁:



佐藤水道
本島と釣魚嶼との間の海面は水道岩(Channel Rock)によりて二分せらる東の水道は水路誌に水深十二尋を以て記
述せられたるもの西の水道は恐くは大船の通航には危險多かるべく今回の探?船永康丸の如き此水道の中央より
少しく釣魚嶼に近つきて航走せし爲船底微かに暗礁を摩せり余は紀念の爲、本礁を永康礁と名つけ、此水道を佐藤
水道(船長佐藤和一郎氏に因む)と稱せり、(535頁12行〜16行)










魚釣島地図(3)


沖縄県管轄尖閣群島圖


尾滝延太郎作製     沖縄県管轄尖閣群島圖 (旧名魚釣島久場島)






魚釣島地図(4)



魚釣島地図(4)


尾滝延太郎作製   沖縄県管轄尖閣群島圖 (旧名魚釣島久場島)  魚釣島部分





魚釣島地図(5)



魚釣島事業所配置図−「尖閣と竹島」
















魚釣島地図(6)




九州大学・長崎大学合同調査隊報告書より、添付図
 


Iri-saki Otaki-dani Ko-tani Senzyo-iwa Kita-saki Doan-dani Higashi-saki  
Oranda-magari Ando-saki Senryokukaku 等の地名が描かれている。
漢字では、西崎、尾瀧渓、小渓、千畳岩、北岬、道安谷、東岬、
和蘭曲、安藤岬、閃緑角、などにあたる。
ただ、東岬はHigashi-sakiではなく、agari-sakiである。東岬の名付け親の
明治33年の地学雑誌で黒岩恒氏はアガリサギと書いている。アガリサギは
印刷ミスではなかろうか。沖縄では、西はiriであり、東はagariある。







魚釣島地図(7)




魚釣島地名図 (2)

地名は上にある明治時代尖閣諸島を探検した黒岩恒氏が作製した地図による。
管理者が国土交通省国土地理院1:25000 に書き加えたものである
和平山は魚釣島の和名である。沖縄では魚釣島はユーグンクバジマと言った。
原図は:国土交通省国土地理院1:25000
地図閲覧サービス(試験公開) 382343 2万5千分1地形図名:魚釣島 [北東]

島の西部の上に細い入り江があるが、ここが古賀氏が作った船着き場である。
その横にあるのが同じく古賀氏が建設した工場跡地。





















魚釣島地図(8)





国土地理院旧図



国土地理院の以前のものです。






















魚釣島地図(9)








黒岩恒 「釣魚臺碇泊地より島地仰望の圖」




尖閣列島探険記事
地学雑誌・第12輯144巻・482頁
明治33年12月


















魚釣島地図(10)




黒岩恒「海上より6哩を隔てて釣魚臺を望む」




尖閣列島探険記事
地学雑誌・第12輯144巻・482頁
明治33年12月













魚釣島地図(11)






魚釣島の地図



尖閣研究
琉球大学尖閣列島学術報告1971.7 p170















魚釣島地図(12)





尖閣諸島魚釣島地図




uoturi-tizu
日本青年者











魚釣島地図(13)






吐喝喇及尖閣群島


大日本帝国
陸地測量部
1933(昭和8年)全体図

假製版  五万分一地形圖

本圖ハ當部正式ノ製版ニ先タチ速ニ一般ノ需用ニ供スル爲メ地形測量原圖ヲ製版ニ附シタルモノナレハ圖畫ノ不 鮮明ヲ免レザルモノトス

昭和五年測圖(海上冩眞測量)本圖ハ現地踏査ヲ行ハス

魚釣島
冩眞ハ魚釣島ノ中等潮位ヨリ起算シ米冪ヲ以テ示ス


昭和八年五月二十五日印刷同五月三十日発行
著作権所有印刷兼発行者   大日本帝国陸地測量部
定価金拾参銭







ファイル:Tokara and Senkaku Islands Map.jpg
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/64/Tokara_and_Senkaku_Islands_Map.jpg



























魚釣島地図(14)







図は黄尾島古賀村より魚釣島及び尖閣諸嶼を望みたる遠景なり
「黄尾嶼」(第二章 地理及地質)掲載図
地学雑誌・690頁・第12輯144巻
明治33年12月








魚釣島地図(15)





魚釣島地質層

魚釣島地質層
沖縄の自然「島の自然と鍾乳洞」66頁
昭和54年-下謝名松栄



















魚釣島地質調査図
(季刊「沖縄」56号)






















































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魚釣島地図−(資料)
魚釣島地図−(資料)